古代中国における「春秋時代」とは、前770年から前403年までのやく360年をいう。孔子はこの時代の末期に活躍した人物だが「春秋」と言う名称は、孔子が魯の年代記もとに編纂したとされる「春秋」にちなんだものだ。
ときの王朝は、前1100年頃に「殷」を滅ぼして成立した「周」である。春秋時代が始まる770年は、周王朝の都・鎬京が西方から異民族の侵入を受け、東の楽邑に遷都が行われた年であった。鎬京に都があった300年間を「西周」、前770年から前249年に秦の始皇帝に滅ぼされるまでを「東周」と呼びわける。合計840年にわたって続いた王朝であった。
周王朝は、孔子が理想の聖天子と仰いだ文王が基礎をつくり、その息子・武王が殷の紂王との決戦に勝って樹立した。武王には補佐役の弟・周公がおり武王の死後は成王をたすけて「徳」による政治を行った。孔子は周公を「聖人と」たたえ、儒教の「礼」を周公の定めた道徳的慣習にもとづくものとした。
孔子は、自分が生まれる500年以上前の周王朝初期の治世を、聖天子と聖人による「王道政治」が実現した理想の時代と考えていた。
ところが時代が下って春秋時代のころになると、周王室の権威はすっかり衰え、各地の諸侯が力を持って激しい勢力争いが繰り返されるようになった。 周王朝の、統治形態は「周の封建制」といわれ、武王が天下統一後、一族・功民を各地に封じそれぞれを独立国としたことに始まる。この制度では周王室と諸侯国は宗家と分家の関係になるため、当初から各国が独自に走る可能性が高いシステムであった。
周王朝初期には「千余国」あった諸侯国も、次第に強者が弱者を侵略・併呑するようになり、春秋時代の始めには100国あまりになった。そのうち大きかったのが、秦・晋・斉・楚・魯・衛・燕・曹・宗・陳・蔡・鄭・呉・越の14国だが、この中からさらに有力諸侯が周辺異民族に
備え、「尊王攘夷」を唱えて諸侯同盟の盟主となった。「春秋の五覇」といい、斉の桓公、晋の文公、宗の襄公、秦の穆公、楚の莊王の5人がそうである。 孔子が生まれた魯は、周王朝の功臣・周公が封じられた国である。周公は成王を補佐して周にとどまり続けたため、魯には息子が入ったが、周王朝が衰えた春秋時代でも、魯はその血統を誇りとし、周の伝統的な制度・文化をもっともよく伝えるくにであった、ところで一方で国力は弱く、斉。晋・楚といった強国に従属して命脈を保つしかなかった。
|